江戸歴史講座 第44回 江戸時代の囲碁と将棋 ~ 本因坊算砂と大橋宗桂~ レポート

2017年5月25日、江戸歴史講座の44回目として、「江戸時代の囲碁と将棋 ~本因坊算砂と大橋宗桂~」が開催されました。

遊戯史学会の会長であり、囲碁・将棋を初めとした遊戯に関する多くの研究をされている増川宏一先生をお招きして、現在の研究について話していただきました。

藤井聡太棋士によるデビューから負けなしの連勝記録の更新、コンピュータソフト「alphaGO」がプロ相手に4勝1敗で勝ち越す、など連日人々の話題を集め、その動向が注目される囲碁・将棋界。
今でこそ競技性を有し、プロの存在する囲碁と将棋ですが、その原点はどの時代にあったのでしょうか。

中国から伝来したとされる囲碁と将棋、14世紀の日本ではすでに公家や僧侶の間で
「教養として身に着けておくべき諸芸」として、茶道や詩とともに学ばれることがありました。
そしてそれに倣うように武士も囲碁と将棋を学び、やがてそれが一般市民にも伝わり、全国的な広がりを見せることになります。

しかし、その一方で「僧侶としての勤めが疎かになる」「賭け碁・賭け将棋の横行」で禁止にする寺社も少なくありませんでした。

15世紀に入ると環境に変化が訪れます。
大勢の碁打ちの中から、特に実力を持つ「名手」が出現し始めます。
名手は各地の公家の邸宅や寺社に赴き、指導を主としながら目の前で、時には相手役を買って指すようになります。
その謝礼として金銭や物品を受け取る名手が登場し、これが「最初のプロ」と先生は語ります。

16世紀や江戸時代に入ると豊臣秀吉や徳川家康が主導で行う大茶会や大宴会に碁打ち・将棋指しが招かれるようになり、大商人や茶人の観衆の中、天皇や将軍の御前で対局を披露・指導をするようにもなります。
本講座のタイトルにもあり、現在の対局の名称にもなっている囲碁の名手、「本因坊算砂」と将棋の名手、「大橋宗桂」が登場したのもこの時代です。

徐々に披露や指導の場面が多くなるにつれて、碁打ち・将棋指しの社会的地位は上昇、それを証明するかのように当時の公家たちが遺した日記には、

「関ヶ原の合戦で、西軍方に味方した本因坊の遠戚が死罪を免れたそうだ。噂を聞くに、本因坊自身が家康公に対して口利きをしたそうじゃないか。」

といった内容の文言が残されていたとのこと。

その関ヶ原の合戦の後、天下統一が磐石になった家康は、ついに本因坊、宗桂を含む8名の碁打ち・将棋指しに扶持(現在の給与に近い)を与えるようになります。
民衆や公家、僧侶が嗜む「遊戯」から、幕府公認の「芸能」となった瞬間でもあり、プロが誕生した瞬間でもある、と先生の解説にも熱が入ります。

しかしまだ疑問は残ります。

同じ幕府公認の芸能として、「能楽」や「華道」などがありますが、それらと比べてしまうと囲碁や将棋はまだ大衆の認知が浅く、博打的要素もある。
いくら幕府を開いて混乱の少ない世の中に向かいつつある時期だとしても、芸能に昇華するのは早すぎるのでは…?

先生は最後に囲碁・将棋の「芸能昇格」の理由として、次のような説を提唱します。

「―家康は、秀吉に関連する出来事や事件が起きる度に茶会や宴会を開いております。
朝鮮出兵時や秀次の自決事件など、そして秀吉が亡くなった後は秀頼を対象に変えて…

一度茶会や宴会を開けば様々な武将や僧侶、豪商などが一堂に会することになります。
武将からは秀吉や秀頼の動向を聞き、豪商からは現在の経済事情を伺う場でもありました。
そういった内密の話を聞くのに碁打ち・将棋指しが仕向けられたのではないかと思っております。

今の言葉ですと“スパイ活動”をしていたのではないか、ということです。

観客のいる対局はともかく、指導であればターゲットと2人きりになれますし、距離も近い。
内密の話をするのにはうってつけの立場にいると思います。

それを裏付けるように、本因坊や宗桂など、家康と親しい名手ばかりが宴会の度に出向いている記録が残っております。そう考えれば、江戸時代、ある程度の人数がいた碁打ち・将棋指しの中から、なぜこの8人だけが扶持を与えられたのか、また能楽や華道と同じ芸能と認められたのかが説明できるわけであります。」

碁打ち・将棋指しが「スパイ活動」を行っていたとする説には会場の参加者も「まさか」といった表情や仕草で、先生の話を聞いておりました。

もちろん、この説は状況証拠だけを集めた説であり、確証には至っていないと締めくくりましたが、かつての碁打ち・将棋指しの生活ぶりからプロ誕生までの経緯を知ることのできた講座となりました。

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