古書で紐解く近現代史セミナー 第24回 青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師

1215日(木)、特別研究室企画展示:「国際人」としての生き方~大航海時代から昭和戦前まで~ の関連講座として「青山士パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師」を開催しました。講師は土木学会正会員・「青山士とパナマ運河」研究家の清水弘幸氏です。

古書で紐解く近現代史セミナー 第24回 青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師

青山士は1878年、現在の静岡県磐田市に生まれました。
パナマ運河建設に関わった唯一の日本人ですが、一般的にはあまり知られていません。
青山の人生は、内村鑑三の演説「今日の日本」を聞いたことで決まりました。東京帝国大学工学部での師・廣井勇の影響により形成された「土木で国民を救済する」という倫理観と責任感が、内村の演説を聞いたことで「人類のため、国のため」という大志に結実しました。
「この世をよくして去りたい、(I wish to leave the wolrd better than I was born)」というモットーは最後まで土木技師を天職として覚りその気概を貫き生涯を通じて内村、廣井といった師の期待を裏切らなかった士(サムライ)らしいクリスチャンという証といえます。
青山は、大学を出るとすぐにパナマ運河工事に参画するために日本を発ちます。
そして、アメリカ土木学会(ASCE: American Society of Civil Engineers)20世紀における世界の土木工事の7不思議の一つに指定したほどの難工事でであったパナマ運河工事に、7年半一身を捧げました。大変な難工事に取り組む中、日露戦争が終わった頃からアメリカ、中南米で高まった反日運動の影響で、青山はパナマ運河の完成を見ずして帰国します。

古書で紐解く近現代史セミナー 第24回 青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師

ガトゥン閘門西閘門室から北を望む(『Souvenir of the Panama Canal』より)

帰国後は荒川放水路工事に最高責任者として従事します。この工事は、利根川、荒川で起きていた大洪水から何百万人もの人々を救うことになりました。
この荒川放水路工事の最中には、信濃川の大河津で大きな事故起き、青山は大河津修復の最高責任者となり、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮しました。
今日、多くの人がその恩恵を受けるインフラ整備に取り組んだ青山は、自らのモットーである「この世をよくして去りたい」を体現した人物であるといえるでしょう。

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古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績

128日(木)、特別研究室企画展示:「国際人」としての生き方~大航海時代から昭和戦前まで~ の関連講座として「今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績」を開催しました。講師はNPO法人高峰譲吉博士研究会理事長の石田三雄氏です。古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績

石田氏は「高峰譲吉はどんな人物だったのか? どんな仕事をしたのか?」に焦点を当て、話を進めていただきました。。
現在も米国で高い評価を受ける高峰譲吉博士ですが、高峰が眠るニューヨーク郊外の墓地の案内には下記のように記されています(和訳)。
・“近代バイオテクノロジーの父”
・でんぷん消化酵素実用化の最初の発明(1886年)
・アドレナリンの最初の結晶化(1901年)
・ワシントンD.C.を美しく染める有名な桜の寄贈(1912年)
このような業績を残した高峰にはさまざまな出会いがありました。
15歳で入学した大阪医学校で最新のドイツの理化学をドイツ語ではなく英語で教授してくれたリッテル先生と出会ったことがきっかけで、医学ではなく化学の道に進んだこと。東京大学工学部でのアトキンソン先生との出会い、英国グラスゴー留学でミルズ先生から発酵(醸造)の科学原理を学ぶなど常に英語で学ぶ環境にあったこと。帰国後、農商務省官僚としてニューオーリンズ万博に派遣され、そこで妻キャロラインと出会ったこと。米パーク・デイヴィス社の経営者ジョージ・デイヴィスとの出会いは、デイヴィスが高峰を高く評価していたことから、タカジアスターゼの発売につながりました。
さらに東京人造肥料会社の起業に際しては渋沢栄一、益田孝に出資を仰いでいます。
これらの出会いは、その都度高峰の進む道を決め、また、後々まで残る業績のきっかけともなりましたが、高峰が熱心に勉強をした土台があったからこそといえます。

古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績
高峰譲吉(K.Kawakami著『Jokichi Takamine』より)

晩年は日米親善に尽力し、日本からの経済使節団を的確に誘導、日露戦争を目前にして「知日」「親日」を広める献身的努力、桜の寄贈等に手腕を発揮しました。
米国生活の長かった高峰は、日本に帰国したいという思いもあったそうですが、渋沢、益田に説得され帰国を断念し、終生日米親善に尽くしました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績

最後に、ハーバード大学医学部ホフマン教授の著書『Adrenaline』(2013年)に「高峰は、アドレナリンの単離という貢献に対して一度も(ノーベル賞の)候補者に指名されたことがない。(のは不思議なことだ)」という一文が記されていること、2015年にタカジアスターゼが「重要科学技術資料賞」を受賞したことを紹介していただきました。
「こんなにもすごい日本人がいたことを私たちはあまりよく知らない」ということを実感させられる内容の講座でした。

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近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

121日(木)、近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版として「生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~」を開催しました。講師は高崎経済大学特命教授で、富岡製糸場の世界遺産登録にも尽力された佐滝剛弘氏です。

生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

はじめに富岡製糸場の特徴について話していただきました。
富岡製糸場は、ヨーロッパの技術を直輸入した本格的な製糸工場でしたが、最初の「工場」ではなく、横須賀製鉄所(「製鉄所」という名称ではあるものの、実際は造船所)よりも7年遅れて設立されました。
富岡製糸場の設計は、横須賀製鉄所のフランス人技術者バスチャンが担当しました。富岡へ製糸機械などを取り入れたフランス人のブリュナと、横須賀製鉄所の首長であったヴェルニーは大変に親しい関係あるなど、富岡製糸場と横須賀製鉄所は人物間の関わりが深く、「姉妹工場」といっても過言ではないほどでした。
また、富岡製糸場は「工場」とはいえ、当初は「技術者養成学校」の性格を持ち合わせていました。女工たちは学校で勉強もでき、8時間労働、日曜日は休みなど、「女工哀史」とは一線を画す経営でした。

生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

創立当時の富岡製糸場(柴田常恵著『群馬の史跡名勝』 / 三明社 / 1928年)

富岡製糸場のもう一つの大きな特徴は、経営者が4度も入れ替わった「流浪の工場」だったということです。
官営製糸場の設立に向けた計画や調整を行った渋沢栄一(日本人の責任者に義兄で師の尾高惇忠)から民間に払い下げ後、三井(中津人脈と慶応人脈 中上川彦次郎、津田興二、小出収、藤原銀次郎)、原三溪(本名富太郎)が経営する原合名会社、世界一の製糸会社「カタクラ」と替わり、戦後は片倉工業の基幹工場となりました。
この経営者の「リレー」が大変スムーズに行われたことを、佐滝氏はリオデジャネイロ五輪で銀メダルを獲得した日本男子リレーチームに例えて大変わかりやすく説明していただきました。
片倉工業の基幹工場としての最盛期は1974年でしたが、日本の繊維産業の衰退とともに1987年に操業を停止しました。しかし、片倉工業は操業停止後も保存を続け、2005年、富岡市に工場建物が寄付されました。片倉工業の尽力がなければ今日の世界遺産登録はなかったかもしれません。

生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

経営者が入れ替わる中、それぞれの企業で富岡製糸場の業務に携わった人たちの中から経営者が育ち、経営者養成の側面も持ち合わせていた、上州人は経営にほとんど関与しなかった(廃藩置県後の一時期置かれた「岩鼻県」出身者が多かった)、といったお話も大変興味深いものでした。
佐滝氏から冒頭にお話があったとおり「富岡製糸場のガイドツアーでは聞けないような」内容で、満足度も高い講座でした。

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海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 レポート

11月10日(木)、東京海洋大学大学院教授 岩淵聡文氏を講師にお迎えし、日比谷カレッジ「海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力」を開催しました。岩淵先生は、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺産会議)の国際水中文化遺産委員会の日本代表を務めるなど、海洋文化研究の第一人者です。

岩淵聡文氏(海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 日比谷図書文化館)

まず、先生が参加者に「水中考古学というと、どのようなものをイメージしますか。」と問いかけました。参加者からは「発掘」や「水に関する文化の研究」といった回答があり、講演の本題に入っていきます。

世界の水中考古学調査の最も初期の事例は、1960年前後に地中海で行われた、テキサスA&M大学のジョージ・バス氏による調査だそうです。また、日本での沈没船調査は、1974年の開陽丸(旧幕府軍の軍艦)が最初とのこと。
「水中考古学」というと沈没船の調査をイメージする人が多いと思います。しかし、21世紀の水中考古学では、沈没船調査も含めた「水中文化遺産研究」という考えにシフトしているそうです。
これには、ユネスコの「水中文化遺産保護条約」の採択・発効が影響しています。
「水中文化遺産保護条約」は2001年に採択、2009年に発効し、21世紀の水中文化遺産保護研究の基礎となる条約です。米英日中韓露などは未批准ですが、発効から5年以上が経ち、理念や精神を無視できない国際情勢になりつつあります。また、未批准国でも批准に向けた準備が進められているとのことです。

「水中文化遺産保護条約」では、「水中文化遺産」とは

文化的、歴史的、または考古学的な性質を有する人類の存在のすべての痕跡であり、その一部あるいは全部が定期的あるいは恒常的に、少なくとも100年間水中にあったもの

と定義されています。
そのため、1905年の日露戦争で沈んだバルチック艦隊の遺構は「水中文化遺産」ですが、太平洋戦争中に沈んだ艦船は2045年頃までは「水中文化遺産」ではないということになります。
また、沈没船だけではなく、石干見(いしひび)(石積みを造り、潮の満ち干で内側に取り残された魚を獲る定置漁具)といった、一時的に水没するものも「水中文化遺産」として保護研究の対象となります。

日本の水中文化遺産で最も有名なものは、長崎県の鷹島海底遺跡でしょう。元寇(げんこう)の沈没船が発見され、2012年には国の史跡に指定されました。
しかし、鷹島海底遺跡よりも先に国の史跡に登録された水中文化遺産があるそうです。それは、1968年に指定された神奈川県の和賀江島です。これは、鎌倉時代に造られた船着場で、一部が定期的に水没する「水中文化遺産」の代表であるとのこと。

国史跡「和賀江島」(海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 日比谷図書文化館)

ところが、港湾遺構等の水中文化遺産の整備は十分とは言いがたく、遺物(陶磁器の破片など)が盗掘されてしまうこともあるそうです。また、地元の教育委員会であっても存在が把握できていない遺構もあるといいます。

沈没船や港湾遺構以外に紹介された水中文化遺産に、海底(沈降)遺構がありました。エジプトのアレクサンドリアなどが有名です。日本にも1908年に発見された諏訪湖底曽根遺跡という沈降遺跡があり、日本の水中考古学はここから始まったと言えます。
また、琵琶湖の湖底にも遺跡があり、日本水中考古学の父といわれる小江慶雄氏は、その研究に生涯を捧げました。最近、琵琶湖の長浜沖からも、縄文時代から平安時代まで幅広い時代の遺物が出土するそうです。

他に、水中考古学の調査方法の紹介がありました。探査にはソーナーが使用されます。曳航して使用するサイドスキャン・ソーナーと船に固定して使用するマルチビーム・ソーナーがあり、調査の目的や遺構の状態などによって使い分けられるそうです。
ただし、ソーナーでは音響画像しか得ることが出来ません。そこで使用されるのが、水中ロボットです。ロボットには、船上とケーブルで繋がっている遠隔操作ロボット(ROV)と、自律型水中ロボット(AUV)があり、遺構検出図の作成に使用されます。

東京海洋大学の水中ロボット(海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 日比谷図書文化館)

AUVの調査映像も動画で見せていただきました。プログラムされた航路を自動で航行し、30分くらい連続して潜れるそうです。

最後に水中考古学の最新の動向が紹介されました。ユネスコの「水中文化遺産保護条約」の2大原則に基づく研究が中心となっているとのことです。2大原則とは以下の2つです。

1:(遺物の)原位置保存
2:商業的利用の禁止

鷹島の元寇船が引き上げられないのもこの原則によります。
また、各国では「水中文化遺産保護条約」を未批准の国でも、水中文化遺産の研究組織を整備していますが日本には現在、国立の研究所は存在しないそうです。
「各国では海事博物館や研究所の整備に力を入れる時代になったが、日本はそれらを閉鎖する時代になってしまった。」という先生の言葉が印象的でした。

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日比谷図書文化館 開館5周年記念講演会「再読の愉しみ」レポート

ドイツ文学者・エッセイスト、また読書の達人として知られる池内紀(おさむ)氏を講師にお迎えし、日比谷図書文化館開館5周年を記念した講演会「再読の愉しみ」を11月5日(土)に開催しました。

 池内氏は、「本を再読することは、当時の自分を読むことである」と語ります。

かつて何に心をゆさぶられたのか、何を印象深く覚えているか。かつての自分と今の自分と二人の読者がいて、二重の読み方が出来る。未知の作品を見つけるとともに未知の自分を発見することが、再読の愉しみであると言います。

少年時代に読んだ本を、50代の頃連続で再読したと述べ、少年時代とは“幼さとあどけなさを持つ一方、大人の心情が分かる微妙な中間の年代”であり、その幼い心に感じた「悲しみ」や、「大人になると不利だと分かっていてもそれを選択しなければならないのだ」と感じた想いが甦ってきたそうです。

「鉄仮面」「西遊記」「レ・ミゼラブル」を例に挙げ、当時感じた事は無駄ではなかったと再読をしたことで気付くことが出来たと語りました。

 

 また「楢山節考」「夫婦善哉」「鬼平犯科帳」の3作品をあげ、池内氏の目線で再読した結果についてもお話しいただきました。

「楢山節考」は、三島由紀夫ら有力作家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢七郎処女作です。作中に登場する、原稿時には村人が口ずさむ歌について「楽譜」がつけられており、それがフラメンコ調やワルツ調などで描かれていることに改めて注目し、それはまるで芝居の様だと述べられます。

作品に描かれている死生観や、現代の社会問題に対して深刻になり過ぎず、冷めた目で人の社会が描かれているようだと話されました。

織田作之助の作品「夫婦善哉」では、働き者の女性と、遊びほうける男性との「足し算と引き算の物語」であり、そこには夫婦の・男女一組の人間味・愛情が見え隠れする作品だと述べられます。

「鬼平犯科帳」は1967年 から1989年までの実に22年間にわたり池波正太郎が書き続けた時代小説。そこには長期にわたって書かれた作品だからこその愉しみ方・読み方があるといいます。連載当初、盗賊たちの手段はスマートであったのが、次第に荒っぽい手口となり残虐性が現れ、身内が犯罪人となっていくケースが増えていくと述べます。鬼平犯科帳に描かれた盗賊たちの変化は、当時の高度成長・好景気であった時代から、公害が問題となり、混沌とした時代になってきたことが反映されてきていると述べました。

普段何気なく読んでいる本を、違った視点で見てみること、かつて読んだ本をもう一度読んでみることで、様々な発見があり愉しみ方があることをたっぷりお話しいただいた時間となりました。

 講演会終了後には著書販売とサイン会を開催しました。

サインに加え、イラストも描いてくださいました。

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特別展「江戸からたどるマンガの旅~鳥羽絵・ポンチ・漫画~」関連講座 「漫画300年史と「吹出し」表現の歴史」レポート

日比谷図書文化館では9月17日(土)~11月16日(水)まで、特別展「江戸からたどるマンガの旅~鳥羽絵・ポンチ・漫画~」を開催しています。江戸中期の戯画浮世絵に始まり、昭和初期の漫画雑誌に至るまで、およそ230年のマンガの歴史をたどる特別展です。

漫画300年史と「吹出し」表現の歴史

この特別展に関連して、10月10日(月・祝)に「漫画300年史と「吹出し」表現の歴史」が開催されました。

漫画300年史と「吹出し」表現の歴史

今回の特別展の監修者である漫画・諷刺画史研究家の清水勲氏を講師に迎え、「日本人は何故漫画が好きなのか」、「日本には何故4000人もの漫画家がいるのか」、「「サザエさん」は何故面白いのか」、「赤塚不二夫は漫画史の中で何をしたのか」、「子ども漫画はいつから登場したのか」、「ロシアは何故漫画の中でクマとして描かれるのか」の6つのテーマについて、外国の漫画とも比較しながらお話をいただきました。
清水氏曰く、「日本において漫画が発展してきたのは、人を笑わせる目的のナンセンス漫画が出発点となっていて、それを描き続けてきたから」とのこと。
また、吹出しの歴史については、言語圏による諸外国での吹出しの有無に触れ、日本では漫画漫文などの形式を経て、昭和初期に「コマ+吹出し」の連続漫画という今のスタイルに至ったことを説明されました。

漫画300年史と「吹出し」表現の歴史

最後にまとめとして、日本の各時代で、漫画文化がどのように発展して現在のマンガに繋がっているのかを概観しました。
江戸時代中期には、木版印刷技術の発達によって鳥羽絵を始めとする戯画の大量生産が可能となり、一般大衆も楽しめる娯楽として、日本における漫画の萌芽となりました。
明治のころからは、現代的な意味でのマンガという言葉が使われ始めたそうです。明治末~大正期には北澤楽天を始めとする職業漫画家が登場し、『のらくろ』などの誰でも描きやすいキャラクターの影響もあって昭和期には漫画家人口が増加、昭和20年代には少女コミックなど様々な種類の漫画が描かれるようになりました。そして、この時期に手塚治虫が登場し、ストーリー漫画が隆盛します。
このように、限られた時間ながら、日本漫画がたどってきた歴史の様相を把握できる講座でした。
参加者からは「他にないテーマの講座で、大変興味深かった。」など、好評の声を多くいただき、盛況な講演会となりました。

なお、特別展「江戸からたどるマンガの旅~鳥羽絵・ポンチ・漫画~」の会期は11月16日(水)までとなっています。10月18日(火)からは後期展示に展示替えを行いましたので、前期展示をご覧になった方も再びお楽しみいただけます。ぜひお越しください。

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演劇への入口講座 第7回 小鼓で楽しむ能 ~能の魅力 レポート

10月8日(土)「演劇への入口講座」の第7回目として、「小鼓で楽しむ能 ~能の魅力」が開催されました。
能の中でも小鼓に焦点を当てた、一味違った目線でお話をいただく今回の講演会。

大倉源次郎氏を紹介する田村民子氏

講師は小鼓方の第一人者、大倉流の十六世宗家、大倉源次郎氏と、「伝統芸能の道具ラボ」の主宰を務めている田村民子氏です。

小鼓を組み立てる大倉源次郎氏

まず初めに、小鼓の説明があり、大倉先生が実物をお見せする、と「小包(こづつみ)」に「小鼓(こつづみ)」を包んだ状態でお持ちになり「これは小包です」と笑顔でお話しをすると、会場全体がドッと笑いに包まれました。

しかし、中から取り出した小鼓は、私達が見慣れた姿とは違ったものでした。
そこにはまだ組み立てていない状態の小鼓が入っていたのです。
「能や狂言を見たことがある」と答えた方が9割もいた今回の講演会ですが、誰も分解された状態の小鼓は見たことがなく、先生が一から小鼓を組み立てていく様子や、縄も胴もない状態で面を打つ時の普段と違った音色に、会場からは驚きの声があがりました。

小鼓の組み立てが終わったところで、大倉先生による「小鼓を持ったつもりで小鼓のお稽古をする」という、先生曰く「エア小鼓」状態で、参加者に小鼓の打ち方をレクチャーするコーナーがスタートしました。

大倉源次郎氏による打ち方のレクチャー

先生のリズムに合わせて、参加者が「ホヲ」と声を上げ、手を打つ。
最初はそれぞれのリズムが合わない状態が続きましたが、打ち続けるうちに自然とリズムが合うようになり、最後は会場全体で1つの音になるほどの一体感が生まれました。

「エア小鼓」が終わった後は、小鼓をまた分解し、胴だけを取り出して、そこに描かれている絵の説明と、込められたメッセージについての解説や、歴史などを大倉先生がユーモアも交えて熱く語りました。

大倉先生曰く、「関西の人間なものですから」と、終始笑いを誘った講演会は、その面白さと感動が相まって、あっという間の2時間が終了しました。

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日比谷カレッジ 第十回ジャパンナレッジ講演会 お江戸ルほーりー文化講座④「江戸は大変?!~八百八町の災害と復興~」レポート

9月28日(水)にお江戸ルほーりーこと堀口茉純氏を講師に迎え、お江戸ルほーりー文化講座の第4弾「江戸は大変⁈~八百八町の災害と復興~」が開催されました。

はじめに堀口氏は講演会のチラシに掲載した浮世絵「世直し拳」を紹介。鯰のようなオジサンと雷のようなオジサン、そして頭の部分が火になっているオジサンが、狐拳というお座敷遊びをやっているという愉快な浮世絵を紹介しました。(「世直し拳」国立国会図書館デジタルコレクション『地震鯰絵』より)

まずは「地震」のお話です。「江戸地震大火方角付」という絵図を見ながら、安政2年10月(1855年11月)に起こった安政江戸の大地震について解説、直下型地震でマグニチュードは6.9~7と推定されています。夜に起こったため、火災が頻発し、絵図を見ると、江戸城の東側が真っ赤になっている様子が分かります。

ただ地震からの復興は早く、地震直後に描かれた浅草寺の五重塔の先端部分の九輪は曲がっていますが、地震翌年の夏に出された歌川広重の浮世絵『名所江戸百景』の「浅草金竜山」では九輪はすでにまっすぐに描かれていることに驚かされます。

次は「雷(台風)」です。安政の大地震から1年を待たずして江戸を襲った安政3年の大風災。地震では1万人の死者が出ましたが、この大風災では10万人の死者が出たといわれています。江戸の主な風水害は134件にのぼるそうで、結構な頻度で洪水被害があったことが分かります。

堀口氏が見せてくれたのは、その時の築地本願寺の様子。本堂の建物部分が崩れ、大屋根が地面に落ちています。しかしその傍らには大屋根の瓦をバケツリレーのごとく運んでいる老若男女が描かれています。「ご門跡がたいへんなことになった」と皆が駆けつけて作業をしている様子が分かります。

幕府に何かしてもらうというよりも、自治意識が高かった江戸人。おかげで4年後には本堂が落成。当時の江戸の市街地を一望できるパノラマ写真には、元通りになった築地本願寺の本堂が写っていました。

さて最後は「火事」。時代は幕末から一気にさかのぼって、江戸時代になって50年足らず、4代将軍家綱の時代。その時に未曽有の火事「明暦の大火」が起こりました。江戸人の非常時のコミュニティがしっかりしているのは、この経験があったからこそだと堀口氏は述べます。明暦の大火は3回にわたって出火。江戸の町の6割を焼失し、死者は10万人といわれる大惨事でした。

4代将軍家綱はまだ幼く、保科正之、松平信綱の幕閣が復興に奮闘。大名たちが町の人のために炊き出しをしたり、武家地でなく市街地の復興を優先させたり、火事で焼かれた江戸城の天守は「無用の長物」として再建しなかったり(いまだに天守はありません)、また下総と武蔵をつなぐ両国橋もこのときできたそうです。それ以降、いかに暮らしやすいかという点に重きを置いて江戸の町は作られていったのです。

「江戸っ子は宵越しの金を持たない」、と言われますが、「ほんとうは持てなかったのでは」、と堀口氏は語ります。265年の江戸時代、江戸で大火は500件あったとのことです。

“ある日火事でお金を失ってしまうかもしれない、だけど火事の多い江戸であっても、ここで暮らしたい。その中で生きるにはどうすればいいのか”

──江戸人の考え方を知ることによって元気、そして勇気がわいてくる。その土地の歴史を知ることで防災、減災につながると、堀口氏は締めくくりました。

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古書で紐解く近現代史セミナー 第22回 日本の化学研究を拓いた科学者 ~理研創設者・櫻井錠二が遺したもの~ レポート

98日(木)、特別研究室企画展示「『開国五十年史』に見る明治日本の国づくり自己評価―思想・文化・教育編―」の関連講座として「日本の化学研究を拓いた科学者~理研創設者・櫻井錠二が遺したもの~」を開催しました。講師は国立科学博物館理工学研究部長の若林文高氏です。

古書で紐解く近現代史セミナー 第22回 日本の化学研究を拓いた科学者 ~理研創設者・櫻井錠二が遺したもの~

幕末から明治初期にかけて「お雇い外国人教師」が日本で高等教育に携わるようになると、日本人は欧米人から直接、近代科学・技術を学ぶようになりました。政府は優秀な人材を積極的に欧米に留学させ、科学技術、政治・経済制度、文化を学ばせましたが、その中に『開国五十年史』の「数物学」の章の執筆者でロンドンに留学した櫻井錠二(18581939)がいました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第22回 日本の化学研究を拓いた科学者 ~理研創設者・櫻井錠二が遺したもの~

帰国後24歳という若さで日本人2人目の東京大学理学部教授(化学)になった櫻井は、実学や応用分野が優先されていた明治期の日本において、基礎科学が重要であるとし、長い目で見ると基礎化学などの理学を振興することが国家の繁栄につながると主張しました。今では当たり前になった小中高校の理科教育に実験を取り入れたのは櫻井です。

古書で紐解く近現代史セミナー 第22回 日本の化学研究を拓いた科学者 ~理研創設者・櫻井錠二が遺したもの~

櫻井はまた、消化酵素「タカジアスターゼ」や世界初のホルモン「アドレナリン」の発見で知られる高峰譲吉が提案した「国民科学研究所」の設立を政府に働きかけ、19173月に財団法人理化学研究所が設立されました。櫻井は副所長に就任、多くの人材を登用しました。
さらに大学や研究機関に所属する研究者の研究費を援助する機関として「財団法人日本学術振興会」を1932年に設立させ、理事長に就任しました。日本学術振興会は、現在、文部科学省の科学研究費補助金(科研費)の一翼を担い、日本の学術研究を支える組織となっています。
そのほかに、還暦を迎えた櫻井が東京大学教授を退官したことが前例となり、長く東京大学における定年が60歳に定められていたというエピソードも紹介されました。
科学研究や理科教育の基盤整備に多大な貢献をした櫻井の足跡について資料画像を交えて若林先生に詳しくお話しいただきましたが、ご紹介いただいた資料は2014年、日本化学会により「化学遺産」に認定されたものです。
若林先生はこの「化学遺産」の認定に関わられた方ですが、「これだけの資料が残されていたのは、何よりもご家族のお力が大きい。そして櫻井錠二本人が資料をきちんと整理していたということも重要な要因だった」といったお話があり、資料の収集・整理・保存の大切さにも気づかされた講座でした。

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古書で紐解く近現代史セミナー 第21回 「女子を人として、婦人として、国民として教育する」~明治期女子教育に対する成瀬仁蔵の想い~ レポート

91日(木)、特別研究室企画展示「『開国五十年史』に見る明治日本の国づくり自己評価―思想・文化・教育編―」の関連講座として「女子を人として、婦人として、国民として教育する」~明治期女子教育に対する成瀬仁蔵の想い~を開催しました。講師は柿生郷土史料館専門委員(元日本女子大学附属高校教諭)の小林基男氏です。

古書で紐解く近現代史セミナー 第21回 「女子を人として、婦人として、国民として教育する」~明治期女子教育に対する成瀬仁蔵の想い~

日本女子大学校の創設者として知られる成瀬仁蔵は、『開国五十年史』の「女子教育」の章を執筆しています。
講座ではまず、成瀬が生きた時代の世界情勢や留学先の米国の女子教育事情と欧州との違いなどについて詳しくご紹介いただきました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第21回 「女子を人として、婦人として、国民として教育する」~明治期女子教育に対する成瀬仁蔵の想い~

画像でもご紹介いただいた日本女子大学校開校当時の様子は大変興味深いもので、体育の奨励や家政学部における実験・実習の重視など、成瀬の教育観を読み取ることができました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第21回 「女子を人として、婦人として、国民として教育する」~明治期女子教育に対する成瀬仁蔵の想い~

日本女子大学校設立に際しての寄付金簿も画像でご紹介いただき、成瀬の理想とする女子教育の実現のために、当時の多くの政財界人の支援があったこを忘れてはならないということも認識した講座でした。

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