もうひとつの東京オリンピック ~1940年の「幻の五輪」~ レポート

2017年10月31日、日比谷カレッジ「もうひとつの東京オリンピック 1940年の幻の五輪」が開催されました。

講師は一橋大学大学院でスポーツの歴史やスポーツ社会学を研究している坂上 康博(さかうえ やすひろ)先生です。

いよいよ2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催が迫ってきています。
2013年9月8日、東京はオリンピック招致に成功しました。
実は2013年の招致成功、なんと3度目の成功だと先生は話します。

最初は、その20年以上も前の1940年でした。
日本が「オリンピックを東京に迎えるぞ!」と名乗りを上げたのが1932年。
しかし、この頃の日本は世界から孤立していく時代でもありました。

ちょうどこの時期、日本は満州国の是非をめぐって世界と対立、国際連盟を脱退してしまいました。
それでもオリンピック招致に名乗りを上げたことを、坂上先生は次のように説明します。

「満州国が世界に認められなかった時代だからこそ、日本は招致を成功させ、世界から認められたかったのです。」

そのため、日本はスポーツ振興に力を注ぎます。
その甲斐あって1932年のロサンゼルスオリンピックでは多くのメダルを獲得し、日本がスポーツ大国であることを世界に訴えました。

一方で招致合戦の相手であるイタリアに対して、「次回はローマに譲るから、今回は辞退してほしい」と、時の首相ムッソリーニに交渉を持ちかけ、ライバルを減らす工作も進めておりました。(この件に関してはIOCに「政治的介入」として厳重注意されたとか)

そして1936年、ちょうどベルリン大会が開催された年に、ついに日本はオリンピックを勝ち取りました。
日本がなぜ招致合戦に勝利できたのか、坂上先生の解説によると、

・政治とスポーツは別と考えるIOCの基本原則があったから
・ヨーロッパからの移動時間の長さの問題などをクリアできたから
・アジア初の開催となり、5つの大陸で開催するというオリンピックの目標に近づくため
・日本のスポーツ振興に対する尽力を称えて

といった点が挙げられるとのことです。

しかし、その翌年に盧溝橋事件が発生し、日中間に亀裂が生じ、日中戦争へと発展してしまいます。
当然諸外国からは「戦争をしている国で平和の祭典を行うつもりか」と日本に非難が集中することになります。

ところが、IOC側から開催権を取り上げる、ということはなく、日本側から「戦争に集中するので開催権は返上する」という形で、1940年の東京オリンピックは幻に終わってしまいました。

「実はここにIOCの大きな思惑があります」
と、今回の講座の重要なポイントとして、先生は続けます。

「なぜ、IOCはこれから戦争を始めようとする国に開催権を託したままなのか。
もちろん政治とスポーツは別に考えるという原則もありますが、それ以上にIOCはオリンピックを理由に戦争を止めたかったのではないでしょうか」

と締めくくりました。

結末だけを見てしまえば、IOCの願い…オリンピックで戦争を止めることはできませんでしたが、日本のオリンピック招致から返上までの間に、様々な思惑や願いがあったことが判明した講座となりました。

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日比谷カレッジ 江戸文化歴史検定×ジャパンナレッジ講演会 お江戸ルほーりー文化講座⑤ 「幕末維新のバイプレイヤーズ~ヒーローを陰で支えた名脇役6人」レポート

9月13日(水)歴史作家の堀口茉純氏を講師に迎え、江戸文化歴史検定×ジャパンナレッジ講演会「お江戸ルほーりー文化講座」の第5弾を開催しました。今回はテレビの歴史番組へのご出演も多い、東京大学史料編纂所教授の山本博文先生にご意見番としてご登壇いただきました。

「幕末・維新のバイプレイヤーズ~ヒーローを陰で支えた名脇役6人」と題し、堀口氏が独断と偏見で選んだ6人の幕末・維新期の脇役たちを発表し、山本先生にご意見をいただきながら紹介していくという形式で進めていきました。

注目の一人目は幕末の最初と最後に立ち会った、中島三郎助(なかじま・さぶろうのすけ)。その顔が映し出されると、会場のあちらこちらで声があがりました。

 

中島三郎助は浦賀奉行の与力で、ペリー来航の際、最初に交渉した人。ぜんそく持ちで病弱だからこそ、体を鍛え剣の腕を磨いた三郎助の青春時代や、ペリーより前に来たアメリカ人がいてひょんなことから川越藩と一触即発になったという浦賀でのエピソードなど、堀口氏は幕末の光景と三郎助の人生を行ったり来たりしながら、箱館戦争で彼が壮絶な最期を遂げるまでを語っていきます。

ある日訪ねてきた三郎助のご子孫が史料編纂所の助けを借りつつ、たった一人で『中島三郎助文書』をつくったこと、函館には中島町という地名がいまだ残っていること、約30年前の年末時代劇では三郎助を若林豪さんが演じたことなど、山本先生もとっておきのエピソードを次々披露してくれました。

残りの5人は誰なのか――。カレーを紹介したり、写真を撮ったりしながら明治期に活躍する基礎体力を幕末に培った福沢諭吉、文久政治史の中心人物だったけどいつの間にか脇役になってしまっていた薩摩の島津久光、身分にこだわらず人材を抜擢した「そうせい公」長州の毛利敬親、幕府の優秀な人材で横須賀製鉄所など以後の日本の繁栄の礎をつくった小栗上野介(おぐり・こうずけのすけ)、篤姫と和宮の嫁姑対決を見ていた大奥代表庭田嗣子(にわた・つぐこ)といったメンバーでした。

終演後、ご参加の方々は感想を語り合ったり、笑い合ったりしながら帰って行かれました。「知らない人だらけだったけど、とっても感動した!」と言ってくれた方もいらっしゃり、第二弾を期待する声が多く寄せられました。

 

 

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日本の女性画家たち ~平安時代から近・現代まで~(全3回)【第2回】女性による書画制作の歴史:平安時代の女房から近代の文人まで レポート

2017年9月6日(水)、「日本の女性画家」の第2回目「女性による書画制作の歴史:平安時代の女房から近代の文人まで」が開催されました。

第1回目に続き、山種美術館特別研究員である三戸信惠先生に、平安時代から続く女性画家の歴史的な展開を話していただきました。

まず、日本の女性画家との比較のため、西洋の女性画家の話から始まります。
「レディーファースト」など、女性を大切にしているイメージのある西洋ですが、かつては非常に厳しい女性差別があったとのこと。
かの著名な画家・ルノアールは、女性画家に対してこんな言葉を残しております。

「女性の芸術家なんておかしくて笑っちゃうよ!歌手とか踊り子とかなら大歓迎だけどね!」

当時の女性画家が、いかに低く見られていたかを強烈に伝える一文です。
その他、絵を描く上でもっとも重要な基礎練習の一つ「デッサン」にすら女性は制限をかけられていました。

女性は男性のヌードデッサンを禁止されていたのです。
「女性が男性のヌードを見るのはけしからん」と言われ、筋肉隆々の男性を描いた作品(神話の絵や歴史画)が評価される当時では技術的にも女性が画家として職に就くことは困難を極めました。(なお、男性が女性のヌードを描くのは全く禁止されていません)

それでは、日本の女性はどうでしょうか。
なんと日本の女性たちは、西洋とは全く別の歴史を辿っているのです。

縄文や弥生時代、男性は狩りに出かけ、女性は家で手仕事、という役割分担が確立しており、糸を紡ぐ・布を染める・服を縫うといった裁縫は、むしろ女性の世界であったという歴史があります。そこから刺繍など、女性による生活必需品以外の制作活動が自然と盛んになりました。

平安時代になると紫式部を筆頭に「書」や「詩」を制作する流行が男女関係なく訪れました。
やがて書や詩に挿絵を描くようになり、貴族の娘に限定はされますが、女性による書画制作は当たり前のようにあったのです。

時代は流れ、近世になると現代でも名前と作品が判明している女性画家が現れ始めました。
葛飾北斎の娘・応為や歌川国芳の娘・芳鳥女など、家庭に恵まれ、幼い頃から師とする人物がいた女性たちに限定されますが、「女性だからといって教える絵の範囲を限定する」といったこともなかったため、非常にのびのびと制作活動を行っていました。

明治維新後は、奥原晴湖(おくはらせいこ)や野口小蘋(のぐちしょうひん)など、男性の門徒を抱え、男性よりも高い評価を授かるような「女傑」が登場します。

野口小蘋は、上村松園よりも早くに天皇陛下お抱えの絵師「帝室技芸員」に女性初として任命され、皇室の祭事などで用いる屏風などの製作を手がけることになりました。

こうして平安時代から明治時代に至るまでの女性画家の歩みを辿りましたが、三戸先生は最後に、

「平安時代から続く、女性による制作の歴史があったからこそ、彼女たちが道を切り開いてくれたからこそ、今があるのです」
と、締めくくりました。

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日本の女性画家たち ~平安時代から近・現代まで~(全3回)【第1回】上村松園とその時代 レポート

日本を代表する画家・絵師といえば、誰を連想するでしょうか?
葛飾北斎… 横山大観… 思い浮かぶ人物のほとんどは男性ではないでしょうか。
しかし、古くは平安時代から、画家としての足跡を残してきた女性画家が存在するのです。

そんな女性画家の軌跡をたどる全3回の講座「日本の女性画家たち ~平安時代から近・現代まで~」の第1回目は最も有名な女性画家の1人、上村松園(1875-1949)の一生と作品についてのお話です。

講師には、山種美術館の特別研究員である三戸信惠先生にお越しいただきました。

松園は幼少期から絵を描く才能に溢れていたようで、文字の読み書きを覚える前に「他の人が見ても、何を描いているかわかるレベルの絵」を描いていたという逸話が残っています。

そんな松園ですから、当然「絵の勉強がしたい」「画塾に入りたい」と言います。
当時としては自然な反応かもしれませんが、「女が絵の学校に入るなんて!」と叔父は猛反対。

しかし、「つうさん(松園の愛称)の好きな道やもん」と、叔父の反対を受け付けなかったのが、母・仲子でした。

こうして京都府画学校に入学、画家鈴木松年の門下生となるなど、順調に画家としての道を歩み始めた松園。

15歳の頃には政府主催の博覧会に作品を出品、一等褒章を受章し、イギリスの皇子がその絵を買い上げるほどの功績を収めました。
すると、猛反対していた叔父もすっかり気を良くしてしまったようで、自宅に顔を出してはお祝いし、展覧会を開こうものなら毎回通い、周囲に自慢して回っていたとか。

27歳で長男(同じく画家となった松篁(しょうこう))を出産、すでに自分の手筆1本で家計を支えるほどの画家になっていた松園ですが、29歳の時の美術展に出品をした際に事件が起きます。

警備の隙を突いて、作品の顔部分が塗りつぶされるという嫌がらせを受けてしまいます。
「女性のくせに、という理由で受けた落書きでした」と松園本人も語っており、当時の彼女が妬まれ、疎まれていたことが垣間見える一件でした。

が、本人は全く意に介さず、落書きされたままの絵を展示しようとします。
彼女曰く、「落書きされたからといって片付けたら、私はその嫌がらせに屈したことになります。私は屈しません。」と一蹴、それだけでなく「警備の人間は何をやっていたのですか」と警備の人間に説教を行うほどの肝っ玉ぶりを見せます。

以降、何事にも屈さない精神で画家の道を突き進み、女性としては初の文化勲章を受賞するに至ります。

絵のジャンルに関しても、多少横道に逸れることはあっても徹底して女性の絵…美人画を描き続けました。
美人画を描き続けたことに松園は、「男性の描く女性と、女性の描く女性では“どこに美しさを感じるか”の着眼点が違います。女性だからこそ気付ける仕草や一瞬の美があると思います。」と、女性ならではの視点で描き、
「その絵を見ていると邪念の起こらない、またよこしまな心を持っている人でも、その絵に感化されて邪念が清められる…といった絵こそ、私の願うところのものです。」
と、理想の絵について語っています。

1949(昭和24)年、肺がんのため74歳で亡くなりますが、その直前まで絵を描き続けた上村松園。
力強く、自分の信念を貫き続けた画家の一生を振り返る講座でした。

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世界の音楽2017-2018 キルギスの伝統楽器コムズの調べ レポート

世界の音楽2017-2018、「キルギスの伝統楽器コムズの調べ」が8月4日(金)に開催されました。

講師並びにコムズの演奏を行うのは、キルギス共和国出身で、現在は東京音楽大学付属、民族音楽研究所でコムズを担当されているウメトバエワ・カリマン先生です。

また、カリマン先生の演奏仲間でもある井上果歩さんも一緒にコムズの演奏を行いました。
コムズの音色も気になるところではありますが、まずはキルギスという国についてのお話がありました。

「キルギスという国はどんな国でしょうか?」
こんな質問からカリマン先生の明るくハキハキした日本語でスライドショーが始まりました。

そもそも日本では「キルギス」という呼び方で知られているキルギス共和国ですが、正しい呼び方は「クルグズ」とのこと。
1991年に独立するまで、ロシアの占領下にあった際、ロシアの人々が「キルギス」と呼び、それが日本に定着してしまったとのこと。

さて、その「クルグズ共和国」ですが、人口は600万人と少なく、国土は19万8000平方キロメートル、およそ日本の国土の半分ほどです。
その国土の40%が標高3000mを超える山国であり、夏は気温42℃を記録するほど暑く、冬は-35℃を記録するほど寒く、気温差の激しい気候。
ですが先生曰く、湿度が高くないため夏場は日本ほどジメジメした嫌な暑さではありません、と説明し、特に春から夏になるまでは過ごしやすく、観光にピッタリと、クルグズの魅力を伝えてくれました。

スライドショーによるクルグズの説明が終了し、いよいよカリマン先生と井上さんによるコムズのコンサートが始まりました。

コムズは指で弾くタイプの弦楽器ですが、ただ演奏するだけではなく、身振りや手振り、さらにはコムズの持ち方を変えて演奏を行います。
特に音色が変わるわけではありませんが、振り付けを織り交ぜながら「目で見て楽しむ」演奏は古来より続いてきた演奏法とのことでした。

続いて、井上さんによる「キル・キヤク」の演奏です。
キル・キヤクもコムズと同じくクルグズの伝統的な楽器で、こちらはヴァイオリンのように弓で弦を弾いて演奏します。

このキル・キヤクですが、本場クルグズでも奏者がほとんどおらず、非常に存続が危ぶまれている楽器です。
そんな中で、井上さんはクルグズへ赴き、ひたすらに練習を重ね、日本人で唯一のキル・キヤクの奏者になりました。

最後はカリマン先生と井上さんによるコムズの演奏でフィナーレを飾り、クルグズの歴史や文化を学びながら、貴重な演奏を聴くことのできた講座となりました。

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第12回ジャパンナレッジ講演会  辞書編集者を悩ませる、日本語⑤「アップデートされることば」レポート

7月26日(水)に国語辞典編集者・神永曉氏を講師に迎え、第12回ジャパンナレッジ講演会「辞書編集者を悩ませる、日本語」第5弾を開催しました。

森友・加計の学園問題、自衛隊の日報問題……国会は閉会中ですが、政治に関するニュースが世間を騒がせています。それと比例して、今年は政界から生まれた注目ワードが大豊作……ということで、今回は「アップデートされることば」と題し、いま注目されている言葉を中心に神永氏が解説しました。

●「忸怩(じくじ)」──「忸怩たる思い」という使い方が国会で流行。本来の意味は「自分を恥ずかしいと思うさま」なのに、国会では「他人に対して残念に思う」という意味で用いられている。

●「云々(うんぬん)」──安倍首相が「でんでん」と読み間違い。「伝」からの類推と考えられる。

●「ぶっちゃけ」──「ぶちあける」の俗語「ぶっちゃける」の副詞。2003年のドラマで市民権を得た言葉。2007年から国会でも使い始められ、目上だろうと思える人にも使っている。

●「忖度(そんたく)」──中国の『詩経』にみられる古い言葉だが、現在の国語辞典でも「相手の気持ちを推し量る」としか出ておらず、「推し量って“配慮する”」までの意味はない。

国会会議録検索システムを使って、議員が発した話題の日本語をチェック。編集を担当した『日本国語大辞典』で言葉の意味を引いてみたり、福沢諭吉や夏目漱石、島崎藤村などの文章を用いたりして、それぞれの言葉が歩んできた道のりを振り返り、神永氏がテンポよく解説しました。

熱心にメモを取ったり、大きくうなずいたり、ときには笑いがこぼれたり……今を彩る言葉の連発に、会場の皆さんも思わず前のめり。そのほか「ごはんを“よそる”、“よそう”」といった興味深い方言のお話、朝ドラで話題になった「銀ブラ」(銀座でブラジルコーヒーを飲むという間違った語源が使われていた)問題についても説明。

「日本語は私たちにとってとても大事なもの、愛情をもって使ってほしい」と神永氏。政治家の先生方を笑ってみているけど、果たして我々はどうなのか。日本語を大事にしているだろうか?―― 面白い中にも日本語のことを深く考えさせられた90分でした。

 

 

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古書で紐解く近現代史セミナー 第26回 内田嘉吉文庫から見たロシア革命 レポート

61日(木)、特別研究室企画展示:ロシア革命から100年~国際派官僚の書棚で触れる近代ロシア の関連講座として「内田嘉吉文庫から見たロシア革命」を開催しました。講師には拓殖大学国際日本文化研究所教授・ワシーリー・モロジャコフ氏をお迎えしました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第26回 内田嘉吉文庫から見たロシア革命

今回の企画展示は企画本のセレクトをモロジャコフ氏に担当していただいていることもあり、講座は展示本を紐解く形で進められました。
歴史研究者であり、古書のコレクターでもあるモロジャコフ氏ならではの視点で、革命前後のロシア社会や展示本の著者の人物像について、また、展示本の資料的価値についても言及していただきました

古書で紐解く近現代史セミナー 第26回 内田嘉吉文庫から見たロシア革命

展示本は洋書(ロシア語、英語、フランス語)がほとんどのため、モロジャコフ氏の解説で内容がわかり、展示を見る際の参考にもなったのではないでしょうか。
また、ロシア革命を、労働者の革命、農民革命、民族革命と多角的に見ることで、展示本もこれまでとは違った角度から見ることができるのではないかと思われます。

古書で紐解く近現代史セミナー 第26回 内田嘉吉文庫から見たロシア革命

本講座は、ロシア革命を通じて内田嘉吉文庫の蔵書を知る機会ともなり、「写真が多く紹介されて臨場感があった」「内田嘉吉の蔵書から彼の興味関心がわかって面白かった」といったコメントが寄せられました。

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江戸歴史講座 第44回 江戸時代の囲碁と将棋 ~ 本因坊算砂と大橋宗桂~ レポート

2017年5月25日、江戸歴史講座の44回目として、「江戸時代の囲碁と将棋 ~本因坊算砂と大橋宗桂~」が開催されました。

遊戯史学会の会長であり、囲碁・将棋を初めとした遊戯に関する多くの研究をされている増川宏一先生をお招きして、現在の研究について話していただきました。

藤井聡太棋士によるデビューから負けなしの連勝記録の更新、コンピュータソフト「alphaGO」がプロ相手に4勝1敗で勝ち越す、など連日人々の話題を集め、その動向が注目される囲碁・将棋界。
今でこそ競技性を有し、プロの存在する囲碁と将棋ですが、その原点はどの時代にあったのでしょうか。

中国から伝来したとされる囲碁と将棋、14世紀の日本ではすでに公家や僧侶の間で
「教養として身に着けておくべき諸芸」として、茶道や詩とともに学ばれることがありました。
そしてそれに倣うように武士も囲碁と将棋を学び、やがてそれが一般市民にも伝わり、全国的な広がりを見せることになります。

しかし、その一方で「僧侶としての勤めが疎かになる」「賭け碁・賭け将棋の横行」で禁止にする寺社も少なくありませんでした。

15世紀に入ると環境に変化が訪れます。
大勢の碁打ちの中から、特に実力を持つ「名手」が出現し始めます。
名手は各地の公家の邸宅や寺社に赴き、指導を主としながら目の前で、時には相手役を買って指すようになります。
その謝礼として金銭や物品を受け取る名手が登場し、これが「最初のプロ」と先生は語ります。

16世紀や江戸時代に入ると豊臣秀吉や徳川家康が主導で行う大茶会や大宴会に碁打ち・将棋指しが招かれるようになり、大商人や茶人の観衆の中、天皇や将軍の御前で対局を披露・指導をするようにもなります。
本講座のタイトルにもあり、現在の対局の名称にもなっている囲碁の名手、「本因坊算砂」と将棋の名手、「大橋宗桂」が登場したのもこの時代です。

徐々に披露や指導の場面が多くなるにつれて、碁打ち・将棋指しの社会的地位は上昇、それを証明するかのように当時の公家たちが遺した日記には、

「関ヶ原の合戦で、西軍方に味方した本因坊の遠戚が死罪を免れたそうだ。噂を聞くに、本因坊自身が家康公に対して口利きをしたそうじゃないか。」

といった内容の文言が残されていたとのこと。

その関ヶ原の合戦の後、天下統一が磐石になった家康は、ついに本因坊、宗桂を含む8名の碁打ち・将棋指しに扶持(現在の給与に近い)を与えるようになります。
民衆や公家、僧侶が嗜む「遊戯」から、幕府公認の「芸能」となった瞬間でもあり、プロが誕生した瞬間でもある、と先生の解説にも熱が入ります。

しかしまだ疑問は残ります。

同じ幕府公認の芸能として、「能楽」や「華道」などがありますが、それらと比べてしまうと囲碁や将棋はまだ大衆の認知が浅く、博打的要素もある。
いくら幕府を開いて混乱の少ない世の中に向かいつつある時期だとしても、芸能に昇華するのは早すぎるのでは…?

先生は最後に囲碁・将棋の「芸能昇格」の理由として、次のような説を提唱します。

「―家康は、秀吉に関連する出来事や事件が起きる度に茶会や宴会を開いております。
朝鮮出兵時や秀次の自決事件など、そして秀吉が亡くなった後は秀頼を対象に変えて…

一度茶会や宴会を開けば様々な武将や僧侶、豪商などが一堂に会することになります。
武将からは秀吉や秀頼の動向を聞き、豪商からは現在の経済事情を伺う場でもありました。
そういった内密の話を聞くのに碁打ち・将棋指しが仕向けられたのではないかと思っております。

今の言葉ですと“スパイ活動”をしていたのではないか、ということです。

観客のいる対局はともかく、指導であればターゲットと2人きりになれますし、距離も近い。
内密の話をするのにはうってつけの立場にいると思います。

それを裏付けるように、本因坊や宗桂など、家康と親しい名手ばかりが宴会の度に出向いている記録が残っております。そう考えれば、江戸時代、ある程度の人数がいた碁打ち・将棋指しの中から、なぜこの8人だけが扶持を与えられたのか、また能楽や華道と同じ芸能と認められたのかが説明できるわけであります。」

碁打ち・将棋指しが「スパイ活動」を行っていたとする説には会場の参加者も「まさか」といった表情や仕草で、先生の話を聞いておりました。

もちろん、この説は状況証拠だけを集めた説であり、確証には至っていないと締めくくりましたが、かつての碁打ち・将棋指しの生活ぶりからプロ誕生までの経緯を知ることのできた講座となりました。

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近代日本ものづくり研究会 日比谷カレッジ版 経済の縮小に対応できる社会とは ~谷根千工房の実践をヒントに~ レポート

520日(土)、近代日本ものづくり研究会 日比谷カレッジ版「経済の縮小に対応できる社会とは~谷根千工房の実践をヒントに~」を開催しました。講師には、京都大学名誉教授・縮小社会研究会代表理事の松久寛氏、谷根千工房代表取締役の山﨑範子氏をお迎えしました。
初めに、松久氏から縮小社会とはどのようなものか、概要を説明していただきました。

近代日本ものづくり研究会 日比谷カレッジ版 経済の縮小に対応できる社会とは ~谷根千工房の実践をヒントに~

エネルギー使用の年2%縮小で化石燃料が枯渇するまでの時間を引き延ばすことができ、年2%の縮小は可能であることをグラフや具体的事例を紹介していただき、人口減少や高齢化ですでに「縮小」が始まっている社会においては、成長が豊かさや幸せとイコールではない、発想を転換し楽しく縮小して、みんなが幸せになる社会を構築していくべきというお話から、そういった幸せな社会の都会での実践例として山﨑氏の谷根千のお話へとつないでいただきました。

近代日本ものづくり研究会 日比谷カレッジ版 経済の縮小に対応できる社会とは ~谷根千工房の実践をヒントに~

山﨑氏からは、東京には珍しい自然、地震・戦災に耐えた建築物、史跡、形にはならない暮らしぶり等々を調査・記録・紹介して次世代に渡す手だてとして地域雑誌『谷根千』を1984年に発刊したことを説明していただき、その活動を具体的な事例を挙げて紹介していただきました。
旧東京音楽学校奏楽堂や旧安田楠雄邸、長く使われていなかった蔵の保存・公開・活用などは他の地域でも参考にできそうな活動で、そこに関わる地域住民にとっては歴史の再発見でもあるようです。
「懐古趣味ではなく、良いものを生かしながら、暮らすのが楽しい、生きのいい町として発展するのに少しでもお役に立てたら」という『谷根千』の編集方針は、「丈夫で長持ち」「良いものを長く使う」といった縮小社会のコンセプトと親和性があり、実践例としては大変わかりやすかったのではないでしょうか。
地域雑誌としての『谷根千』は2009年に終了していますが、活動はまだまだ続いていて、谷中にあったのこぎり屋根の織物(リボン)工場の記録・資料調査は今後の進捗が期待されます。また、井戸が埋められるという計画があると「祟りがある」と中止するよう説得するなど、楽しく地域の景観や歴史を守っていく活動の様子がよくわかりました。
今回の講座ではさらに、「谷根千地域におけるソーシャルキャピタルと健康に関する住民参加型アクションリサーチ」についても紹介していただきました。谷根千地域の高齢者が「幸せそうにみえる」ことから、始まった研究とのことですが、どのような結果になるか、大変興味深いところです。

近代日本ものづくり研究会 日比谷カレッジ版 経済の縮小に対応できる社会とは ~谷根千工房の実践をヒントに~

参加者の皆さんからは「本当に必要なものは何か考えて暮さねば」「縮小社会と一般社会生活との相関性のヒントが得られました」「地域の歴史認識、文化の保存などの必要性を改めて痛感」といったコメントが寄せられ、今の暮らしについて再考するきっかけとなる講座内容でした。

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近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 20世紀最大の土木事業 パナマ運河の謎(全2回) 第2回 パナマ運河はどのようにつくられたのか? レポート

316日(木)、近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版「20世紀最大の土木事業パナマ運河の謎」(全2回)の第2回を開催しました。この回のテーマは「パナマ運河はどのようにつくられたのか?」、講師は前回に引き続き土木学会正会員・「青山士とパナマ運河」研究家の清水弘幸氏です。

近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 20世紀最大の土木事業 パナマ運河の謎(全2回) 第2回 パナマ運河はどのようにつくられたのか?

パナマ運河は、当時エッフェル塔の建設で世界最高峰といえる土木技術を持ち、スエズ運河の開通に成功したフランスが工事に着手しました。
しかし、乾いたスエズで運河建設に成功したフランスも、熱帯雨林のパナマでは気候や風土病に苦しみ、また、パナマ地峡の独特な地層の工事に対応できず、撤退を余儀なくされました。
その後を引き継いだのがアメリカです。アメリカは徹底した衛生管理の下、風土病を予防し、正確な測量や最先端の土木技術で、パナマ地峡の地層や「クレブラカット」と呼ばれる蛇行した区間に対応しながら工事を進めました。
フランスが採った水面式を止めて閘門式を採用するなど、アメリカの土木技術こそが世界最高峰であることを世界に知らしめる建設工事であったと言っていいいでしょう。

近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 20世紀最大の土木事業 パナマ運河の謎(全2回) 第2回 パナマ運河はどのようにつくられたのか?

地滑りが起こりにくい角度を算出しての掘削作業や、掘削土をオートメーションで鉄道に運んで処分するという、現在でも通用するシステムのお話などは大変興味深く、パナマ運河が難工事であったことがよく理解できました。
アメリカが記録した工事の様子と、船舶がパナマ運河を通過する場面を5分にまとめた(実際は通過に1011時間かかる)貴重な映像も紹介していただき、大変わかりやすく、参加者の皆さんからも高評価の講座でした。

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