日比谷カレッジ 第11回ジャパンナレッジ講演会  川瀬巴水没後60年企画「浮世絵ルネサンスと巴水の名作」レポート

2月23日(木)に銀座・渡邊木版美術画舗(通称・渡邊版画店)の3代目店主、渡邊章一郎氏を講師に迎え、第11回ジャパンナレッジ講演会、川瀬巴水没後60年企画「浮世絵ルネサンスと巴水の名作」を開催。大勢のお客様に参加していただきました。

渡邊氏の祖父、渡邊庄三郎は「新版画」という新たなジャンルを作り、大正、昭和期に江戸の浮世絵技術を再興させた方です。新版画はいまでも、日本はもちろん、海外にも愛好家がたくさんいて、アップル社の設立者、故スティーブ・ジョブズ氏は伊東深水の美人画を用いて新製品のプレゼンテーショしたこともあるそうです。

明治時代、江戸の浮世絵は、急激に衰退。写実性では写真にかなわない、速報性では新聞にかなわない、みやげ物としてどうかといえば、その地位を絵葉書に取ってかわられ、次第に浮世絵師になろうとする人もいなくなりました。けれど、「外国では浮世絵は売れている」――。ならば、浮世絵の復刻版を作り、海外へ輸出すればいい──庄三郎はそこに商機を見つけます。

新版画への挑戦のきっかけとなった二人の外国人絵師との出会い、画家橋口五葉との喧嘩別れの真相、鏑木清方門下の伊東深水を美人画の絵師として抜擢、そして40年間をともに歩いた絵師巴水との邂逅など、新版画の名作を見ながら、渡邊氏は庄三郎と新版画についてテンポよく解説していきました。

そして後半は、旅の版画家、巴水の名作を一挙に紹介。巴水が得意とする、雪・月・花・雨・夜・夕暮・早朝のジャンル別に、これぞ名品、といわれる作品をピックアップし解説していただきました。単なる美術評論ではなく、版元という商売人の視点でのお話はどれも新鮮で、渡邊氏しか知りえないエピソードもふんだんに盛り込まれており、会場のお客様も最後まで熱心に聞き入っていました。

 

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近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 20世紀最大の土木事業 パナマ運河の謎(全2回) 第1回 パナマ運河はなぜつくられたのか? レポート

222日(水)、近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版「20世紀最大の土木事業パナマ運河の謎」(全2回)の第1回として、「パナマ運河はなぜつくられたのか?」を開催しました。講師には、土木学会正会員・「青山士とパナマ運河」研究家の清水弘幸氏をお迎えしました。
清水氏には、昨年1215日に開催した 古書で紐解く近現代史セミナー第24回「青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師」でもお話しいただきましたが、今回はパナマ運河に焦点を絞って語っていただきました。近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 20世紀最大の土木事業 パナマ運河の謎(全2回) 第1回 パナマ運河はなぜつくられたのか?

1513年、スペイン人・バルボアがパナマ地峡を横断して太平洋を発見して以来、大西洋と太平洋を結ぶことは多くの人々にとっての夢でした。
1880年から1889年まで、スエズ運河建設者であるフランス人・レセップスによるパナマ運河建設が行われますが、熱帯での建設作業経験がなかったため、予想以上の難工事や疫病に対応できず、建設計画は挫折します。
パナマ運河建設事業は米国に引き継がれ、1904年、工事に着手します。レセップスの失敗を教訓に、徹底的な衛生管理が行われました。工事では、レセップスの海面レベル方式ではなく、水門式運河が採られました。最新の工事技術と巨費を投じ、1914年、第一次世界大戦勃発の年にパナマ運河は開通しました。

近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 20世紀最大の土木事業 パナマ運河の謎(全2回) 第1回 パナマ運河はなぜつくられたのか?

パナマ運河の開通により、ニューヨーク―サンフランシスコ間が15000キロ短縮され、米国の産業にとってのメリットは大きいものでした。また、第一次世界大戦以後、パナマに軍隊を駐屯させた米国にとってパナマ運河は、軍事上でも大きな役割を果たしました。
大西洋と太平洋を結ぶこの運河は、人々の夢から大国の世界戦略へと、建設目的が変化していったことを認識させられる講座内容でした。

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古書で紐解く近現代史セミナー 第25回 地図と都市 ―台湾・樺太の『火災保険特殊地図』と都市研究の可能性― レポート

218日(土)、特別研究室企画展示:日本統治期台湾の都市景観~遺された『火災保険特殊地図』より~ の関連講座として「地図と都市―台湾・樺太の『火災保険特殊地図』と都市研究の可能性―」を開催しました。講師には熊本県立大学教授・辻原万規彦氏、明治大学准教授・青井哲人氏のお二人をお迎えしました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第25回 地図と都市 ―台湾・樺太の『火災保険特殊地図』と都市研究の可能性―

初めに、辻原氏より「火災保険特殊地図の面白さ」をテーマにお話しいただきました。
この講座のタイトルにもある、台湾・樺太(他に旭川市も)の『火災保険特殊地図』は特別研究室で所蔵しているものです。
20155月に特別研究室で『火災保険特殊地図』をご覧になってからデジタル資料化、論文発表への経緯や『火災保険特殊地図』の具体的な内容、どんなことがわかるかについて説明していただきました。
『火災保険特殊地図』は、その名称からもわかるように、火災保険料を算出するために作製されたものです。樺太の『火災保険特殊地図』には「そ」の文字が記載されている箇所があり、これは蕎麦屋を示していて、おそらく蕎麦屋は火災が出やすいという認識があった等当時の様子が大変よくわかるお話でした。

古書で紐解く近現代史セミナー 第25回 地図と都市 ―台湾・樺太の『火災保険特殊地図』と都市研究の可能性―

次に、青井氏より「台湾都市の成り立ちを歴史的に読み解く」をテーマにお話しいただきました。
日本統治期の台湾の都市計画についてはよく知られており、それに伴って整備されていった建築物は現在も残り、リノベーションでさまざまに活用され、人気を集めていますが、それに至るまでにどのような改造が行われたのかについて分かるためには、元の都市の姿を知る必要があります。
講演では彰化を例に、都市計画前の市街地の痕跡を紹介していただき、さらに清末から日本統治期初期の都市の変遷をたどっていただきました。
また、北斗を例に、地理的条件と建物の関連性についても紹介していただき、その合理性や人々の知恵は大変興味深いものでした。

古書で紐解く近現代史セミナー 第25回 地図と都市 ―台湾・樺太の『火災保険特殊地図』と都市研究の可能性―

休憩を挟んで、質疑応答の後、両氏の現在の研究についても紹介していただきました。
台湾の都市の成り立ちと交通(物流)の関連性など、その成果に期待される参加者の方も多かったと思われます。

古書で紐解く近現代史セミナー 第25回 地図と都市 ―台湾・樺太の『火災保険特殊地図』と都市研究の可能性―

講座終了後はたくさんの方が特別研究室に来室され、『火災保険特殊地図』をご覧になっていました。講師の辻原氏、青井氏に熱心に質問される方もあり、大変充実した内容の講座でした。

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古書で紐解く近現代史セミナー 第24回 青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師

1215日(木)、特別研究室企画展示:「国際人」としての生き方~大航海時代から昭和戦前まで~ の関連講座として「青山士パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師」を開催しました。講師は土木学会正会員・「青山士とパナマ運河」研究家の清水弘幸氏です。

古書で紐解く近現代史セミナー 第24回 青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師

青山士は1878年、現在の静岡県磐田市に生まれました。
パナマ運河建設に関わった唯一の日本人ですが、一般的にはあまり知られていません。
青山の人生は、内村鑑三の演説「今日の日本」を聞いたことで決まりました。東京帝国大学工学部での師・廣井勇の影響により形成された「土木で国民を救済する」という倫理観と責任感が、内村の演説を聞いたことで「人類のため、国のため」という大志に結実しました。
「この世をよくして去りたい、(I wish to leave the wolrd better than I was born)」というモットーは最後まで土木技師を天職として覚りその気概を貫き生涯を通じて内村、廣井といった師の期待を裏切らなかった士(サムライ)らしいクリスチャンという証といえます。
青山は、大学を出るとすぐにパナマ運河工事に参画するために日本を発ちます。
そして、アメリカ土木学会(ASCE: American Society of Civil Engineers)20世紀における世界の土木工事の7不思議の一つに指定したほどの難工事でであったパナマ運河工事に、7年半一身を捧げました。大変な難工事に取り組む中、日露戦争が終わった頃からアメリカ、中南米で高まった反日運動の影響で、青山はパナマ運河の完成を見ずして帰国します。

古書で紐解く近現代史セミナー 第24回 青山士 パナマ運河と荒川放水路建設に生き様を刻んだ伝説的土木技師

ガトゥン閘門西閘門室から北を望む(『Souvenir of the Panama Canal』より)

帰国後は荒川放水路工事に最高責任者として従事します。この工事は、利根川、荒川で起きていた大洪水から何百万人もの人々を救うことになりました。
この荒川放水路工事の最中には、信濃川の大河津で大きな事故起き、青山は大河津修復の最高責任者となり、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮しました。
今日、多くの人がその恩恵を受けるインフラ整備に取り組んだ青山は、自らのモットーである「この世をよくして去りたい」を体現した人物であるといえるでしょう。

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古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績

128日(木)、特別研究室企画展示:「国際人」としての生き方~大航海時代から昭和戦前まで~ の関連講座として「今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績」を開催しました。講師はNPO法人高峰譲吉博士研究会理事長の石田三雄氏です。古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績

石田氏は「高峰譲吉はどんな人物だったのか? どんな仕事をしたのか?」に焦点を当て、話を進めていただきました。。
現在も米国で高い評価を受ける高峰譲吉博士ですが、高峰が眠るニューヨーク郊外の墓地の案内には下記のように記されています(和訳)。
・“近代バイオテクノロジーの父”
・でんぷん消化酵素実用化の最初の発明(1886年)
・アドレナリンの最初の結晶化(1901年)
・ワシントンD.C.を美しく染める有名な桜の寄贈(1912年)
このような業績を残した高峰にはさまざまな出会いがありました。
15歳で入学した大阪医学校で最新のドイツの理化学をドイツ語ではなく英語で教授してくれたリッテル先生と出会ったことがきっかけで、医学ではなく化学の道に進んだこと。東京大学工学部でのアトキンソン先生との出会い、英国グラスゴー留学でミルズ先生から発酵(醸造)の科学原理を学ぶなど常に英語で学ぶ環境にあったこと。帰国後、農商務省官僚としてニューオーリンズ万博に派遣され、そこで妻キャロラインと出会ったこと。米パーク・デイヴィス社の経営者ジョージ・デイヴィスとの出会いは、デイヴィスが高峰を高く評価していたことから、タカジアスターゼの発売につながりました。
さらに東京人造肥料会社の起業に際しては渋沢栄一、益田孝に出資を仰いでいます。
これらの出会いは、その都度高峰の進む道を決め、また、後々まで残る業績のきっかけともなりましたが、高峰が熱心に勉強をした土台があったからこそといえます。

古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績
高峰譲吉(K.Kawakami著『Jokichi Takamine』より)

晩年は日米親善に尽力し、日本からの経済使節団を的確に誘導、日露戦争を目前にして「知日」「親日」を広める献身的努力、桜の寄贈等に手腕を発揮しました。
米国生活の長かった高峰は、日本に帰国したいという思いもあったそうですが、渋沢、益田に説得され帰国を断念し、終生日米親善に尽くしました。

古書で紐解く近現代史セミナー 第23回 今も世界に輝く高峰譲吉さんの業績

最後に、ハーバード大学医学部ホフマン教授の著書『Adrenaline』(2013年)に「高峰は、アドレナリンの単離という貢献に対して一度も(ノーベル賞の)候補者に指名されたことがない。(のは不思議なことだ)」という一文が記されていること、2015年にタカジアスターゼが「重要科学技術資料賞」を受賞したことを紹介していただきました。
「こんなにもすごい日本人がいたことを私たちはあまりよく知らない」ということを実感させられる内容の講座でした。

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近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版 生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

121日(木)、近代日本「ものづくり」夜学会 日比谷カレッジ版として「生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~」を開催しました。講師は高崎経済大学特命教授で、富岡製糸場の世界遺産登録にも尽力された佐滝剛弘氏です。

生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

はじめに富岡製糸場の特徴について話していただきました。
富岡製糸場は、ヨーロッパの技術を直輸入した本格的な製糸工場でしたが、最初の「工場」ではなく、横須賀製鉄所(「製鉄所」という名称ではあるものの、実際は造船所)よりも7年遅れて設立されました。
富岡製糸場の設計は、横須賀製鉄所のフランス人技術者バスチャンが担当しました。富岡へ製糸機械などを取り入れたフランス人のブリュナと、横須賀製鉄所の首長であったヴェルニーは大変に親しい関係あるなど、富岡製糸場と横須賀製鉄所は人物間の関わりが深く、「姉妹工場」といっても過言ではないほどでした。
また、富岡製糸場は「工場」とはいえ、当初は「技術者養成学校」の性格を持ち合わせていました。女工たちは学校で勉強もでき、8時間労働、日曜日は休みなど、「女工哀史」とは一線を画す経営でした。

生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

創立当時の富岡製糸場(柴田常恵著『群馬の史跡名勝』 / 三明社 / 1928年)

富岡製糸場のもう一つの大きな特徴は、経営者が4度も入れ替わった「流浪の工場」だったということです。
官営製糸場の設立に向けた計画や調整を行った渋沢栄一(日本人の責任者に義兄で師の尾高惇忠)から民間に払い下げ後、三井(中津人脈と慶応人脈 中上川彦次郎、津田興二、小出収、藤原銀次郎)、原三溪(本名富太郎)が経営する原合名会社、世界一の製糸会社「カタクラ」と替わり、戦後は片倉工業の基幹工場となりました。
この経営者の「リレー」が大変スムーズに行われたことを、佐滝氏はリオデジャネイロ五輪で銀メダルを獲得した日本男子リレーチームに例えて大変わかりやすく説明していただきました。
片倉工業の基幹工場としての最盛期は1974年でしたが、日本の繊維産業の衰退とともに1987年に操業を停止しました。しかし、片倉工業は操業停止後も保存を続け、2005年、富岡市に工場建物が寄付されました。片倉工業の尽力がなければ今日の世界遺産登録はなかったかもしれません。

生糸が支えた明治の近代化~富岡製糸場をめぐる人々を中心に~

経営者が入れ替わる中、それぞれの企業で富岡製糸場の業務に携わった人たちの中から経営者が育ち、経営者養成の側面も持ち合わせていた、上州人は経営にほとんど関与しなかった(廃藩置県後の一時期置かれた「岩鼻県」出身者が多かった)、といったお話も大変興味深いものでした。
佐滝氏から冒頭にお話があったとおり「富岡製糸場のガイドツアーでは聞けないような」内容で、満足度も高い講座でした。

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海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 レポート

11月10日(木)、東京海洋大学大学院教授 岩淵聡文氏を講師にお迎えし、日比谷カレッジ「海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力」を開催しました。岩淵先生は、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺産会議)の国際水中文化遺産委員会の日本代表を務めるなど、海洋文化研究の第一人者です。

岩淵聡文氏(海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 日比谷図書文化館)

まず、先生が参加者に「水中考古学というと、どのようなものをイメージしますか。」と問いかけました。参加者からは「発掘」や「水に関する文化の研究」といった回答があり、講演の本題に入っていきます。

世界の水中考古学調査の最も初期の事例は、1960年前後に地中海で行われた、テキサスA&M大学のジョージ・バス氏による調査だそうです。また、日本での沈没船調査は、1974年の開陽丸(旧幕府軍の軍艦)が最初とのこと。
「水中考古学」というと沈没船の調査をイメージする人が多いと思います。しかし、21世紀の水中考古学では、沈没船調査も含めた「水中文化遺産研究」という考えにシフトしているそうです。
これには、ユネスコの「水中文化遺産保護条約」の採択・発効が影響しています。
「水中文化遺産保護条約」は2001年に採択、2009年に発効し、21世紀の水中文化遺産保護研究の基礎となる条約です。米英日中韓露などは未批准ですが、発効から5年以上が経ち、理念や精神を無視できない国際情勢になりつつあります。また、未批准国でも批准に向けた準備が進められているとのことです。

「水中文化遺産保護条約」では、「水中文化遺産」とは

文化的、歴史的、または考古学的な性質を有する人類の存在のすべての痕跡であり、その一部あるいは全部が定期的あるいは恒常的に、少なくとも100年間水中にあったもの

と定義されています。
そのため、1905年の日露戦争で沈んだバルチック艦隊の遺構は「水中文化遺産」ですが、太平洋戦争中に沈んだ艦船は2045年頃までは「水中文化遺産」ではないということになります。
また、沈没船だけではなく、石干見(いしひび)(石積みを造り、潮の満ち干で内側に取り残された魚を獲る定置漁具)といった、一時的に水没するものも「水中文化遺産」として保護研究の対象となります。

日本の水中文化遺産で最も有名なものは、長崎県の鷹島海底遺跡でしょう。元寇(げんこう)の沈没船が発見され、2012年には国の史跡に指定されました。
しかし、鷹島海底遺跡よりも先に国の史跡に登録された水中文化遺産があるそうです。それは、1968年に指定された神奈川県の和賀江島です。これは、鎌倉時代に造られた船着場で、一部が定期的に水没する「水中文化遺産」の代表であるとのこと。

国史跡「和賀江島」(海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 日比谷図書文化館)

ところが、港湾遺構等の水中文化遺産の整備は十分とは言いがたく、遺物(陶磁器の破片など)が盗掘されてしまうこともあるそうです。また、地元の教育委員会であっても存在が把握できていない遺構もあるといいます。

沈没船や港湾遺構以外に紹介された水中文化遺産に、海底(沈降)遺構がありました。エジプトのアレクサンドリアなどが有名です。日本にも1908年に発見された諏訪湖底曽根遺跡という沈降遺跡があり、日本の水中考古学はここから始まったと言えます。
また、琵琶湖の湖底にも遺跡があり、日本水中考古学の父といわれる小江慶雄氏は、その研究に生涯を捧げました。最近、琵琶湖の長浜沖からも、縄文時代から平安時代まで幅広い時代の遺物が出土するそうです。

他に、水中考古学の調査方法の紹介がありました。探査にはソーナーが使用されます。曳航して使用するサイドスキャン・ソーナーと船に固定して使用するマルチビーム・ソーナーがあり、調査の目的や遺構の状態などによって使い分けられるそうです。
ただし、ソーナーでは音響画像しか得ることが出来ません。そこで使用されるのが、水中ロボットです。ロボットには、船上とケーブルで繋がっている遠隔操作ロボット(ROV)と、自律型水中ロボット(AUV)があり、遺構検出図の作成に使用されます。

東京海洋大学の水中ロボット(海に沈んだ歴史と宝物‐水中考古学の魅力 日比谷図書文化館)

AUVの調査映像も動画で見せていただきました。プログラムされた航路を自動で航行し、30分くらい連続して潜れるそうです。

最後に水中考古学の最新の動向が紹介されました。ユネスコの「水中文化遺産保護条約」の2大原則に基づく研究が中心となっているとのことです。2大原則とは以下の2つです。

1:(遺物の)原位置保存
2:商業的利用の禁止

鷹島の元寇船が引き上げられないのもこの原則によります。
また、各国では「水中文化遺産保護条約」を未批准の国でも、水中文化遺産の研究組織を整備していますが日本には現在、国立の研究所は存在しないそうです。
「各国では海事博物館や研究所の整備に力を入れる時代になったが、日本はそれらを閉鎖する時代になってしまった。」という先生の言葉が印象的でした。

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日比谷図書文化館 開館5周年記念講演会「再読の愉しみ」レポート

ドイツ文学者・エッセイスト、また読書の達人として知られる池内紀(おさむ)氏を講師にお迎えし、日比谷図書文化館開館5周年を記念した講演会「再読の愉しみ」を11月5日(土)に開催しました。

 池内氏は、「本を再読することは、当時の自分を読むことである」と語ります。

かつて何に心をゆさぶられたのか、何を印象深く覚えているか。かつての自分と今の自分と二人の読者がいて、二重の読み方が出来る。未知の作品を見つけるとともに未知の自分を発見することが、再読の愉しみであると言います。

少年時代に読んだ本を、50代の頃連続で再読したと述べ、少年時代とは“幼さとあどけなさを持つ一方、大人の心情が分かる微妙な中間の年代”であり、その幼い心に感じた「悲しみ」や、「大人になると不利だと分かっていてもそれを選択しなければならないのだ」と感じた想いが甦ってきたそうです。

「鉄仮面」「西遊記」「レ・ミゼラブル」を例に挙げ、当時感じた事は無駄ではなかったと再読をしたことで気付くことが出来たと語りました。

 

 また「楢山節考」「夫婦善哉」「鬼平犯科帳」の3作品をあげ、池内氏の目線で再読した結果についてもお話しいただきました。

「楢山節考」は、三島由紀夫ら有力作家たちに衝撃を与え、絶賛された、当時42歳の深沢七郎処女作です。作中に登場する、原稿時には村人が口ずさむ歌について「楽譜」がつけられており、それがフラメンコ調やワルツ調などで描かれていることに改めて注目し、それはまるで芝居の様だと述べられます。

作品に描かれている死生観や、現代の社会問題に対して深刻になり過ぎず、冷めた目で人の社会が描かれているようだと話されました。

織田作之助の作品「夫婦善哉」では、働き者の女性と、遊びほうける男性との「足し算と引き算の物語」であり、そこには夫婦の・男女一組の人間味・愛情が見え隠れする作品だと述べられます。

「鬼平犯科帳」は1967年 から1989年までの実に22年間にわたり池波正太郎が書き続けた時代小説。そこには長期にわたって書かれた作品だからこその愉しみ方・読み方があるといいます。連載当初、盗賊たちの手段はスマートであったのが、次第に荒っぽい手口となり残虐性が現れ、身内が犯罪人となっていくケースが増えていくと述べます。鬼平犯科帳に描かれた盗賊たちの変化は、当時の高度成長・好景気であった時代から、公害が問題となり、混沌とした時代になってきたことが反映されてきていると述べました。

普段何気なく読んでいる本を、違った視点で見てみること、かつて読んだ本をもう一度読んでみることで、様々な発見があり愉しみ方があることをたっぷりお話しいただいた時間となりました。

 講演会終了後には著書販売とサイン会を開催しました。

サインに加え、イラストも描いてくださいました。

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特別展「江戸からたどるマンガの旅~鳥羽絵・ポンチ・漫画~」関連講座 「漫画300年史と「吹出し」表現の歴史」レポート

日比谷図書文化館では9月17日(土)~11月16日(水)まで、特別展「江戸からたどるマンガの旅~鳥羽絵・ポンチ・漫画~」を開催しています。江戸中期の戯画浮世絵に始まり、昭和初期の漫画雑誌に至るまで、およそ230年のマンガの歴史をたどる特別展です。

漫画300年史と「吹出し」表現の歴史

この特別展に関連して、10月10日(月・祝)に「漫画300年史と「吹出し」表現の歴史」が開催されました。

漫画300年史と「吹出し」表現の歴史

今回の特別展の監修者である漫画・諷刺画史研究家の清水勲氏を講師に迎え、「日本人は何故漫画が好きなのか」、「日本には何故4000人もの漫画家がいるのか」、「「サザエさん」は何故面白いのか」、「赤塚不二夫は漫画史の中で何をしたのか」、「子ども漫画はいつから登場したのか」、「ロシアは何故漫画の中でクマとして描かれるのか」の6つのテーマについて、外国の漫画とも比較しながらお話をいただきました。
清水氏曰く、「日本において漫画が発展してきたのは、人を笑わせる目的のナンセンス漫画が出発点となっていて、それを描き続けてきたから」とのこと。
また、吹出しの歴史については、言語圏による諸外国での吹出しの有無に触れ、日本では漫画漫文などの形式を経て、昭和初期に「コマ+吹出し」の連続漫画という今のスタイルに至ったことを説明されました。

漫画300年史と「吹出し」表現の歴史

最後にまとめとして、日本の各時代で、漫画文化がどのように発展して現在のマンガに繋がっているのかを概観しました。
江戸時代中期には、木版印刷技術の発達によって鳥羽絵を始めとする戯画の大量生産が可能となり、一般大衆も楽しめる娯楽として、日本における漫画の萌芽となりました。
明治のころからは、現代的な意味でのマンガという言葉が使われ始めたそうです。明治末~大正期には北澤楽天を始めとする職業漫画家が登場し、『のらくろ』などの誰でも描きやすいキャラクターの影響もあって昭和期には漫画家人口が増加、昭和20年代には少女コミックなど様々な種類の漫画が描かれるようになりました。そして、この時期に手塚治虫が登場し、ストーリー漫画が隆盛します。
このように、限られた時間ながら、日本漫画がたどってきた歴史の様相を把握できる講座でした。
参加者からは「他にないテーマの講座で、大変興味深かった。」など、好評の声を多くいただき、盛況な講演会となりました。

なお、特別展「江戸からたどるマンガの旅~鳥羽絵・ポンチ・漫画~」の会期は11月16日(水)までとなっています。10月18日(火)からは後期展示に展示替えを行いましたので、前期展示をご覧になった方も再びお楽しみいただけます。ぜひお越しください。

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演劇への入口講座 第7回 小鼓で楽しむ能 ~能の魅力 レポート

10月8日(土)「演劇への入口講座」の第7回目として、「小鼓で楽しむ能 ~能の魅力」が開催されました。
能の中でも小鼓に焦点を当てた、一味違った目線でお話をいただく今回の講演会。

大倉源次郎氏を紹介する田村民子氏

講師は小鼓方の第一人者、大倉流の十六世宗家、大倉源次郎氏と、「伝統芸能の道具ラボ」の主宰を務めている田村民子氏です。

小鼓を組み立てる大倉源次郎氏

まず初めに、小鼓の説明があり、大倉先生が実物をお見せする、と「小包(こづつみ)」に「小鼓(こつづみ)」を包んだ状態でお持ちになり「これは小包です」と笑顔でお話しをすると、会場全体がドッと笑いに包まれました。

しかし、中から取り出した小鼓は、私達が見慣れた姿とは違ったものでした。
そこにはまだ組み立てていない状態の小鼓が入っていたのです。
「能や狂言を見たことがある」と答えた方が9割もいた今回の講演会ですが、誰も分解された状態の小鼓は見たことがなく、先生が一から小鼓を組み立てていく様子や、縄も胴もない状態で面を打つ時の普段と違った音色に、会場からは驚きの声があがりました。

小鼓の組み立てが終わったところで、大倉先生による「小鼓を持ったつもりで小鼓のお稽古をする」という、先生曰く「エア小鼓」状態で、参加者に小鼓の打ち方をレクチャーするコーナーがスタートしました。

大倉源次郎氏による打ち方のレクチャー

先生のリズムに合わせて、参加者が「ホヲ」と声を上げ、手を打つ。
最初はそれぞれのリズムが合わない状態が続きましたが、打ち続けるうちに自然とリズムが合うようになり、最後は会場全体で1つの音になるほどの一体感が生まれました。

「エア小鼓」が終わった後は、小鼓をまた分解し、胴だけを取り出して、そこに描かれている絵の説明と、込められたメッセージについての解説や、歴史などを大倉先生がユーモアも交えて熱く語りました。

大倉先生曰く、「関西の人間なものですから」と、終始笑いを誘った講演会は、その面白さと感動が相まって、あっという間の2時間が終了しました。

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